小さな「革命」からの市民誕生

市民がどこから生まれたか?日本はフランスのように革命が起きてない。

明治はある意味のクーデターから新しい時代が生まれた。

そのに市民は存在しなかった。それでは何時生まれたか?

生まれてないのである。

日清戦争日露戦争で、ナショナリズムを背景にした

国民は生まれたが、日本に市民は生まれて無かったような気がする。

 

市民の定義は明確には分からないがウィキによると

「市民」がその理想とするところの社会、共同体の政治的主体としての構成員を表す

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%B0%91

とある。

 

「政治的主体としての構成員」

自らが政治に関してコミットする存在と言えるだろう。それは別に何処かの政党員に成らなくても良いような気がする。SNSが発達した時代で、自らの立場を判明させ、自らの政治的勢力に何無しらのコミットするだけでも、十分な気がする。

政治的行動はSNSにより敷居が低くなった。

 

今の日本にどれ位政治に関与をしている人がいるだろうか、

選挙率の低さをみても関心の無さは明らかだろう。

ただ、先日の参議院選挙は野党共闘のもとに、全国の野党候補支援者が地域を超えた

政治的な行動だった。SNSが地域を超えさせ、全国で野党の統一候補を勝たせようと、圧倒的な対自民党・対安倍政権に対してムーブメントを起こした。

 

これは立派な政治的活動であると思う。そんな行動で野党共闘が叶ったエリアの支援者は、一種の革命的な気持ちになったような気がする。

長期的な組織票を持つ与党候補に勝てたのである。野党候補の地盤は弱い。まして新人候補は選挙組織は地域にない。自民党は長年の活動で商工会議所やJCなど地域の組織と繋がっており、大きな組織力を持っている。その圧倒的な劣勢の中で勝てた。

それは要る意味小さなエリアの「革命」である。

その支援者は自らの力で「勝たせた」という感覚と共に、当選者にへは「自らの代表」的な感覚を持つだろう。

これって「革命」である市民の誕生ではないか?

 

先日の参議院選ではそんな気持ちを覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

The Shape Of Watter_みんな人魚だ

The Shape Of Watter

 

人魚との恋。この映画は違和感だらけだ。グロテクスな人魚。それとの行為も違和感を覚える。ましてやエロチックなシーンとグロテスクなシーンも心を混乱させ、拒否反応を助長させる。


多分、僕も含めてこの違和感に拒否反応を示すだろう。普通にみれば、良い映画とは思えない。
でも、この違和感は偏見でその下には映画の本質があるのだろう。
そして愛が。


人に言えないものや負い目を抱えて生きている。それは他人にとっては、拒否するだけに値する違和感だろう。
でもその言えない秘密や負い目を持って生きている奴は、毎日を人並みに生きているし、人並みの幸せを望んでいる。


あの映画に出てくる出演者は何かしらの孤独や負い目を持っている。

喋ることが出来ない主人公。違和感だらけの人魚。隣人の老人(彼はもしかしたらBLGT?)。旦那の不満を持った太っちょ友達。
名誉心と自尊心を持つ悪者。スパイの科学者。みんな、何かしらの負い目や不満を持って生きている。

これって当たり前の事だ。
他人を知らないだけで皆何かしらのものを持って生きている。

それがたまたま人魚の形をしているだけで、実は実生活ではあまり変わらないのかも知れないし、誰にでも当てはまる。もしかしたら、他人にとっては人魚に見られているかも知れないし、拒否反応を示されているかも知れない。
世間は偏見の固まりだ。
みんな他人からみれは人魚だ。

shape of watterとは何かと思ったら、監督曰く愛の形というみたい。水はなんの形にも成れるからみたい。

人魚との恋は違和感があり偏見として拒否感があるだろうが、その下には純粋な愛が流れているのだろう。これは端から見れば違和感と拒否感かも知れないが、当事者には愛の形があるのだろう。


映画では孤独同士の人魚と
喋ることが出来ない女性が純粋に心を通じあって恋に落ちていく。
偏見を越えたところにお互いが見えている。本当の愛も同じ何だろう。
一般的な偏見や拒否感を越えたものが愛にたどり着くのかも知れない。

 

 

[http://]

3.11に迎えるにあたって__「魂でもいいから、そばにいて」を読んで

「魂でもいいから、そばにいて」 を読んで 

 

  

 

 震災にあたり、この本を読んでます。

最終話の一歩手前です。

 

この手の話は昔から馴染みがあります。

母方の実家では昔から親族が不思議な体験を語ります。

母親はばあちゃんが死んだときも、黄金に光っていたばあちゃんが

いつものソファーに座っていたと語り、弟の時も鳥や色々な形で

出てきた。それ以外にもこの手の話は良く聞いていた。

僕も少しながら経験もある。

最近では何故か弟が好きなサッカーチャンネルが

勝手にひらいている。CLの試合をみるにはTVを付けてから、

FIRETVを立ち上げ、DAZNを開いてCLを選択しないといけないが

TVを付けた瞬間、CLが映っていた。ここ2週間で2回もそんな体験をした。

多分、来ているんだと思う(笑)

 

 

そんなことがあるから興味本位と震災への敬意からこの本を読んでますが、

当たり前だけど感情が引きづられる。

ここに出てくる話はみんな震災で亡くなった方の話だ。

度々、泣いてしまう。

 

みんな、あの日を振り返り、誰かを想い何かしらの心の結びつきを

しようとする。正にレクイエム(鎮魂歌)としての話なんだと思う。

不思議な体験は肉体を失ったものとの結びつきを具体化したものだ。

 

 

誰かに話すことで亡くなった者との結びつきを再確認できるんだ。

最終的には報われないかも知れないけど、それが彼らの救いなんだと

思う。話しを通して彼らの存在を感じたい。そんな必死な想いは理解できる。

 

 

余談だけど、肉体を失ったものは電波(電気)媒体になっているのでは無いかと

思う。映画の「リング」ではそんな落ちだった。

そんなことを正当化する気もないが、何となくそんな気もしている。

 

 

いずれにせよ、僕らが本を読んで感情を高ぶらせることで

少しは敬意を払えるのではないかと思う。一番ダメなこと忘れてしまうことだ。

今更だから、多くの方が亡くなって大変な悲しい想いをした人がいるし、

震災以降、色々な大変な経験をしてきる。本を読んでいるとそれを再確認できる。

語らないで苦しいでいる人も多かった。表面的な報道のニュースではない

リアルな履歴がそこにはある。

 

3.11は悲しい出来事だが、彼らを思い出せる日でもあるのは事実だし、

彼らとの結びつきを再確認出来る日でもあるんだと思う。

不思議な経験は失ったものへの愛情であり、生きることへの「希望」なんだろう。